体験者の証言 宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日 ジェット機墜落事故

比嘉 静 先生

宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日
宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日
宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日
宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日


比嘉 静先生(当時6年3組担任)

当時の給食は午前10時半ごろ、ミルクだけでした。私が大きなアルミ製のやかんから各自のコップに注ぎます。ひとりひ とりの量の要望を聞き、その通りに注いでいました。ひとまわりして、「もっと飲みたい子は?」と聞き、手をあげた子どものところへいっておかわりを注ぐの です。 あのときも、一巡して4番目の席の正行君のコップにおかわりを注ごうとしていました。私がやかんを上げたときに、何の前ぶれもなく、ゴゴゴゴーッ というものすごい音がしました。何か大きなものが教室にぶつかって、天井も窓もふっとばし、天井や窓ガラスの粉々になったのがどしゃぶりの雨のように降っ てきました。そして、教室がものすごく揺れました。揺れて、揺れて・・・・。同時に一面が火の海となりました。飛行機は燃えながら落ちてきたからですね。 ものすごい音と、揺れと、火の色と、コンクリートやガラスのどしゃぶりです。
私は、「地球が終わる」と思いました。地球の異変だと思ったのです。 覚えていないのですが、私は瞬間、子どもたちに「伏せー!!」と叫んだようです。 私は戦争体験者なので、戦後教員になってからも自分のうけもちの子供たちには、いざというときのために「伏せ」の練習をさせていました。ですから、そのと きの子供たちもすぐに私の指示にしたがって机の中にかくれました。
音がやんだと思ったら、「先生ー!」と子どもがたちが私におおいかぶさってきました。私は、「待て!」と叫んで、子どもたちを避難させるための逃げ道を さがしました。まず教室のすぐわきの外階段をたしかめにいくと、一番下の手すりが曲がっています。ここは危ないと判断し、教室に戻って、子どもたちに「反 対側の常雄先生の教室の前を通って、中庭にいきなさい!」と指示しました。

ところが、何人か残っています。「どうして逃げない!?」と大きな声でいいましたが、動きません。近寄って、はっとしました。まったく「人」の形ではなく なっている子が、2人。瞬間、死んでいると思いました。あと2人います。机も少し火をあげはじめています。これは私1人ではとても助けられない、時間の問 題だ、急いで助けを呼ぼうと、元気な子たちを誘導して中庭にでました。すると、2年生の木造校舎がボンボン燃えています。教頭せんせいがそちらを向いて、 おいおい泣いています。燃え上がる教室から、炎に包まれた女の子が出てきました。私はびっくりして、火を消そうとその子をはたいたら、その子の背中の皮が ずるずるむけて全部私の手についたんです。わーっと思って、抱いて、「誰かいませんかー」と叫ぶけれど、だれもいない。ちょうど避難してきたところからも どった女の先生に、その子を預けました。
向こうから、30代ぐらいの男子がやってきます。保護者でしょう。私はその人の胸に飛びこんで、「お願いします!私の組に子どもがいます!助けてくださ い」といったけれど、その人は私を捨て去るように手で退けました。次に50代くらいの男性が来ました。同じように真正面から抱きついたけれど、同じように 投げ捨てられました。やはり自分の子は自分で助けるしかないと思い、急いで教室に戻りました。
教室には飛行機の頭の部分があって、そばに1人倒れています。乱暴に起こして、「あなたは誰?」とゆり動かすと、「先生・・・」とかすかにいってガクン となりました。みえ子さんでした。みえ子さんにかぶさっている机をひっぱり出して、教室の半分近くまできたところでしょうか、明美さんのお母さんが教室に 駆け込んできました。誰か判別のつかない横たわっている子を見つけて、洋服でわかったのですね、「先生、明美です」とおっしゃるので、「それでは、お願い します」と、明美さんをまかせました。
つづいて卒業生の弘明君が駆け込んできました。あとから聞けば、燃えるジェット機が宮森小学校に突っ込んだのを見て、駆けつけてくれたのです。弘明君は 倒れている子を抱いて、「先生、この子はまだ体温があります」というので、「お願い、弘明!」と頼みました。実はその子は、私が最後にミルクを注ごうとし た正行君だったのです。

そのあとは、クラスの子をひとりひとり確認し、避難ができたのか、誰がどの病院に運ばれたのか、チェックしてきました。そのうち、手があがらなくなって きました。飛んできた窓枠が左肩にぶつかったようでした。アメリカさんが私のケガに気づいて、救急車で軍の病院に運びました。
軍の病院は、校長も保護者も市長さんもいっさい入れません。病院では、やけどを負った2年生が15人ほど、男の子も女の子も全部裸にされてベビーベッド にひとりずつ置かれていました。米軍のやけどの治療は、裸にして薬用風呂にいれるんですね。みんなわんわん泣いていました。
病院の人が「先生か。子どもに声をかけてくれ」といいます。私はひとりづつ話しかけました。だんだんと泣き声がおさまっていきました。夕方まで子どもたちの話し相手になって、病院にもう帰ってもいいといわれたので帰りました。
自宅に着いたときには日が暮れていました。うちの前には人がいっぱいです。私の姿を見つけて、わーっと泣く人、大声で笑う人がいます。わけがわからずに いたら、みんな私が死んだものと思って、香典を包んでやってきていたというのです。私は軍の病院にいったでしょ、誰も私の姿をみてないものだから、死んだ と思った。ラジオでもそう放送されたそうです。
私はいったん死んだのです。その後の人生はそう思って生きていました。

事故のあと、子どもたちは私より早く登校しても教室に入りません。放課後も、事故の前は教室で遊んでいたのに、授業が終わったらさっさと帰るんです。私がいないときには絶対に教室に入りません。
しばらくは校舎の改築のためにトラックが校庭に入ってきました。砂利をざーっと下ろすでしょ。その音がはるか遠く聞こえても、子どもたちはみんなぱーっと教室から逃げるんです。やはり事故が子どもたちの心に恐怖を残したんですね。

話すたびに、あの日亡くなった子たちの顔がすぐそこにあるんです。何年たっても11歳のかれらのまま。時々思うんです。あの子たちは私たちの組だったか らあんな目にあってしまったのかな、って。ミルクを注ごうとした私が生きのびて、注がれる正行君は死にました。だから私は彼らにやるべきことがあるよ、と いわれているような気がします。
私が必死でひっぱり出したみえ子さんに、昨年の50周年の追悼式で数十年ぶりに再会しました。私、みえ子さんに抱きついて、「みえ子、お母さんになっ た?」と聞くと、「うん、息子よ、もう27歳よ」というんですね。ああ、命をつなげた、あのとき助けられてよかった。神様に「ありがとう」といいました。
宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日 ジェット機墜落事故 ジェット機墜落事故 ジェット機墜落事故 ジェット機墜落事故
宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日 ジェット機墜落事故 ジェット機墜落事故 ジェット機墜落事故 ジェット機墜落事故
宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日 ジェット機墜落事故 ジェット機墜落事故 ジェット機墜落事故 ジェット機墜落事故
宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日 ジェット機墜落事故 6月30日 6月30日 6月30日 6月30日 6月30日 6月30日
宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日 ジェット機墜落事故 6月30日 6月30日 6月30日 宮森小学校 宮森小学校 宮森小学校
宮森小学校 NPO法人 石川・宮森630会 宮森630会 6月30日 ジェット機墜落事故 宮森小学校 宮森小学校 宮森小学校 宮森小学校 宮森小学校

破壊された6年3組

墜落したジェット機の一部分が突っ込んだ6年3組の教室
3名の児童が犠牲になりました。
宮森小学校 宮森小学校 宮森小学校
6月30日 6月30日 6月30日 6月30日
6月30日 6月30日 6月30日 6月30日

全焼した2年生の3教室

2年生の3教室が跡形も無く消滅しました。
6名の児童が犠牲になりました。
NPO法人 NPO法人 NPO法人 NPO法人
NPO法人 NPO法人 NPO法人 NPO法人
NPO法人 NPO法人 NPO法人 NPO法人