比嘉 静先生:当時6年3組担任
比嘉 静先生
ミルクをもっと欲しいと手を上げた正行君の席に近づいた時、突然、轟音とともにすごい熱気と火の流れ、激しい揺れ、どしゃぶりの雨のように石の粉が襲った。一瞬地球が終わると思った。「伏せー」と私は叫んだらしい。
ドカーンと二度、身の砕けるような音が終わって我にかえった。教室の様子は一変、天井に大きな穴。廊下の窓際、壁はない。外壁のブロックも打ちぬかれ、窓ガラスは粉砕されて一面に散乱。叩きつけられて北側に押し集められた机、腰掛けの下から我にかえった子ども達は、「わーっ」と泣きながら「先生―!」と私の方に駆け寄る。半狂乱になっている子ども達を制して、私は状況を確かめてきて東への廊下を通って逃げるように指示した。
ところが何人かが残っている。エンジンの油のついた机、腰掛けが燃えだしている。「誰だ、まだそこに居るのは。早く逃げるんだ」と怒鳴っても動かない。助けようと近づいてわかった。死んでいる。見回すと4人いる。誰だかわからないのが2人。外傷の見つからないのが2人。辺りは血の海だ。時間の問題だ。助けを求めて教室からおりていくと、燃えさかる2年生の教室から全身火だるまになりながら女の子が出てきた。急いで火を消そうと手ではたくと背中の皮がズルズル剥けて私の手についた。ハッとして女の子を抱いて「誰かいませんかー!」と呼びながらいくと、タケ先生が来て抱きとって下さった。その時、父兄がどんどん学校に来た。真っ先の男の人の胸に飛び込んで「私の教室に子どもがいます。助けて下さい」と頼んだが、すぐ撥ねのけられた。続いて来た男の人にも頼んだが、同じように撥ねのけられた。自分の子は自分でしか助けられないんだとわかり、教室へ急いだ。一秒でも早く助け出すことで命が決まるんだと胸の中で繰り返した。
教室へ入ると、すぐ明美さんのお母さんが来た。すぐ我が子を見つけ「先生、明美です」と抱きしめた。明美さんをお母さんにお願いした。大きなエンジンの側にいる美枝子さんを引っ張っていると、男の人が来て彼女を運んで行ってくれた。高校生の松田広明君が正行君の体に触れて「先生、この子まだ体温があります」と言う。「広明、お願い」と・・・。まだ一人女の子が残っている。助けを求めて再び教室を降り、戻ってみると彼女はもういなかった。教頭先生が運んだと聞く。
私も左肩を負傷して軍病院に運ばれた。火傷した2年生が全裸にされ、1人ずつベッドにいてウォンウォン泣いている。看護婦に頼まれて私も包帯姿で声をかけると、泣き声が小さくなった。夕方、家へ帰ると弔問客がいっぱいいた。ラジオ放送で比嘉静は死んだと報道されたらしい。
新里 律子先生(旧姓浦崎):当時4年1組担任
以下に掲載するのは、事故当時4年1組の担任だった新里律子先生(旧姓浦崎)が1997年9月24日に催された沖縄県収用委員会第7回公開審理の場で証言した内容です。
わたくしは恩納村の恩納に住んでおります。もと小学校教員をしておりました。名前は 新里律子でございます。
まず、本題に入ります前に、宮森小学校戦闘機事故で亡くなられた遺族の方々にお断りしてから演題に入りたいと思います。と申しますのは、わたくしは昨日まで今日のための原稿を書いておりました。その中には、この部分はちょっと話せない、削除しなくてはいけない、という部分が多々ございました。ところが、今日この会場に入りましたとたんに、その考えは変わりました。わたくしは苦しい中で、その当時の様子を詳しく述べることが遺族への償いかと思います。つきまして、当時の模様を赤裸々にお話申し上げることをお許しいただきたいと思います。
では、本題に入ります。1959年6月30日、私は宮森小学校で4年1組の担任をしておりました。いつものように、平和なのどかな朝が始まり、平和な学園生活でみんなも嬉々として一日を迎えていました。当時わたくしは29歳。結婚したてで、お腹の中には6ヶ月の赤ちゃんを身ごもっておりました。ちょうど10時20分頃だったんです。いつもは子どもたちを教室から早めに出すものを、その日はミルクの時間に雑務が食い込みまして、不幸中の幸いとでもいうんでしょうか、外に出す時間が食い込んでおりました。さて、雑務を終えて、ミルクの時間に入りました時に、当番の子供が「ミルクいただきます」と言って、一杯飲みかけた時に、ドッカーン。すごい音が教室中を揺らせました。
なんだろう!子どもたちは席を蹴ってミルクをこぼして私の教壇の前に集まりました。ひょっと、西側の入口の屋根の上を見ますと、真っ黒い物体が屋根の一角にぶら下がっております。私はとっさに、これは不発弾だなと思いました。あれが落ちたら教室はこっぱ微塵だ、子供を避難させなくてはいけない、ととっさに思いました。子どもたちは「先生、カバンどうしますか?」こういう事態になっても、子どもたちは自分のカバンのことを心配していました。「カバンはいいから、後で取りにくるから、みんな安全な避難場所に避難しましょう」と言って、先頭の子供たちは順序よく出口から出ていきました。わたくしは教室の全体を見回し、1人の子供も残っていないことを確認して、最後に教室から出ていきました。
するとどうでしょう!わたくしの前の2年生の教室の前から、4、5名の子供が火だるまになって飛び出してきました。髪はぼうぼうと燃えて、洋服がぱちぱちと燃えています。最後にパンツのひもが・・・。私はこの状態を見ても消すことができませんでした。パンツのひもが燃えて、最後に、水道のところでパタッと倒れました。ジューという煙に混ざった水の音に私はびっくりしました。子どもたちは欠けたガラスの上を、火の上を、踏みながら安全な場所へと歩いていきました。
職員室の前に来ました。丸太ん棒のように真っ赤に焼けただれた、男の子か女の子かわからないような子が、手足だけが丸くなって煙をはいております。2階(4年生の教室の北側に位置している6年生の教室が配置されていた2階建て)の方から、当時の教頭先生が、女の子を抱いて降りてらっしゃいます。6年生の女の子、頭のほうが大怪我をしています。到底助からないと素人の目にも映りました。教頭先生が真っ白いワイシャツを真っ赤な血で染めながら、この子を抱いて泣きながら降りてらっしゃいました。
それでも、私は自分のクラスの子供が36名、無事に一カ所に集まってくれましたので、そちらへ行きますと、1人の男の子が「先生、足が痛い」と。ミルク当番でミルク受けを持った子でした。見ましたら、運動ズボンの足の下の皮が全部剥げているんです。真っ赤に、血は出てない。「あなたは重油をかぶったんだね。お母さんはお家にいるから、お家に帰ってお母さんと病院に行って頂戴」
もう1人の女の子は頭から血がザーザーと流れてきました。この子は窓ガラスで頭に怪我を負っていました。髪をあげるとたいした怪我ではありませんでしたので、持っていたハンカチで押さえてあげて、「あなたも怪我はたいしたことはないね、お家に帰りなさいよ」やっとのことで、それだけを言って、家に帰しました。
残りの生徒が全員無事だということが分かりましたので、私はお腹の子供がちょっと下がり気味でしたので、運動場の一角で座っていました。しばらくしますと、いろんな親たちが子供の名前を呼んで、子どもたちは親の名前を呼んで、地獄絵さながらでした。上空には米軍のヘリコプターが飛んでいます。後でわかったんですけど、私の教室も、屋根の瓦がめくり取られていました。そして屋根をこすって、(6年生の)2階の教室に機体の一部が突っ込んだのです。担任の先生が機体の一部に打たれ、怪我していますが、その瞬間は痛みも何も気づかなかったそうです。機体の下になって、血だらけになり、3名の子供が亡くなりました。
児童11名、一般の方が6名、17名が亡くなりました。さらに210名という重軽傷者がいました。
わたくしたちは職員としての務めを果たすべく、一生懸命頑張りました。1人の女の先生が流産しました。当時の校長先生は、ショックのあまり、病気に倒れました。それから、一番多くの犠牲者を出された女の先生は、自分は助かって、大勢の子供が亡くなり、怪我を負ったことに自責の念にかられ、そういう苦しい気持ちをこらえながら、各遺族の家を回りました。この先生は戦争体験者で、満州引き揚げ者でいらっしゃいました。主人と2人の息子を満州で亡くしました。自分は満人に犯されないように、顔に炭を塗り、縁の下にもぐっては難を逃れてきた。そんなふうな苦しみを越えてきたのに、またこのような悲しみに遭うとは。先生は、毎日このことで苦しんでおられました。この苦しみを胸の中に秘めながら、昨年亡くなりました。自分の体は、琉球大学の医学部に献体をなさったと聞いております。
さて、当時の事故は、思い出すのも悲しいことでございます。遺族の方々は38年を過ぎても、まだ苦しみをこらえております。去年行きました、あの亡くなった2年生の女の子の家庭でびっくりしたことがありました。「先生、これ見てください」と言って見せてくれたのは、なんと、その子の1年生の時の皆出席証だったんです。1年生の時に、病気もせずに、このように健康で1日も欠席しないで学校に出ていた子が、2年の6月に帰らぬ人となったのです。家族にとって、年が重なるごとに悲しみは深まるとおっしゃいます。その間中、あちらこちらで線香の匂いがしました。今日は病院から連れて帰るんだ、この子は助からないんだ、と言ってあちらこちらで線香の匂いがしました。
治った子供で記憶喪失の子もいます。4年生になっても3年の時の怪我が原因で、掛け算も全部忘れてしまいました。五十音も忘れました。担任の先生は誰だったでしょう?と聞かれても思い出せません。その前の記憶が全然ないそうです。それから、その当時は助かったけれど、何年か後に、事故による後遺症が原因で亡くなった方もいます。
いくら賠償金を積まれても、いくらお詫びを言われても、遺族の気持ちは変わらないと思います。今沖縄に基地がある限り、絶対の安全ということはありません。私たちは、そういう悲しみを二度と味わわないために、平和な島にして欲しいと思います。